オールド・ワールドの神々の位置づけ(その1)

 今月末に『救済の書』が発売されますし、今回は『ウォーハンマーRPG』の神々の位置づけについての自分の所見です。とはいっても、ファンの方には目新しいものではないかもしれませんが。


 いわゆる「剣と魔法もののTRPG」では、魔法と同じく神の存在は一般的です。しかし、神をその世界においてどのように位置づけるかは、なかなか難しいものがあると思います。ファンタジーものの多くは中世の西洋をモチーフにしていますが、当時多大な影響力を持っていたキリスト教と同じような一神教を扱ったものはほとんどありません。キリスト教圏では、これをモチーフにしたものを娯楽で扱うのに抵抗があるのかもしれません。それ以外にも、唯一絶対的な存在が実際にいると設定してしまうと、色々問題が起こります。まず、そんな存在がいればその神意に沿った調和のとれた世界になってしかるべきで、冒険の舞台には向かないこと。また、絶対的な存在がいてなお、冒険の舞台に向くような乱世であるとすると、それは絶対的な存在ではないか、今は力を失っているかという変な話になってしまいます。はたまた、絶対的な存在がちゃんといてもなおかつ乱世であるならば、神の真意は何かとか哲学的な話を考察しなければなりません。娯楽作品で扱うには、スケールが大きいかなと思います。

 そういうこともあってか、多くのTRPGおいて神の位置づけといえば多神教になります。この場合の神は、唯一絶対的な存在では無論なく、神というよりも強大な力を持った人間に近い存在です。善神と邪神が絶えずしのぎを削っているという設定は冒険の舞台に相応しいものです。また、それぞれの神は人知を超えたものではないので、GMも扱いやすいですね。ただ、「ヤンキー口調の戦神」とか「関西弁の商売の神」とかあまりにも人間臭くしてしまうと、判りやすさや親近感は沸きますが神秘性が薄れてしまいます。それが相応しい世界観もあれば、相応しくない世界観もありますね。また、神が人間に近い存在で善神と邪神が絶えず争っている世界は、勧善懲悪ものと相性はよいですが、それ以外では少し難しい面がでてきます。善神たちの示すものが善であり、その神官はすべて善良とすれば、神の威を借りる悪党などは普通は存在しません。また、善悪が定まらないようなベクトルの話は成立しにくいと思います。その手のダーク系やリアル系に世界のベクトルを向けようとすれば、神と人間の距離を離すという手法がよくつかわれると思います。神々が世界を去ってあまり影響力を発せなくなっているとしたり、神を『エルリック・サーガ』の法と混沌の神々のようにある意味人知を超えた存在にするなどです。ただ、クトゥルフ神話レベルまで神を人間性からかけ離れた存在にしてしまうと、宗教の大衆性というものが薄れると思います。その世界のごく一般的な住人は、そんな存在をどう崇めているかちょっと想像つかないですね。


 で、ようやく『ウォーハンマーRPG』の神々の話です。この世界は多数の神がいます。そして、神は人間に近い存在ではなく、現世にはほとんど介入してきません。でも、オールド・ワールドの住人の信仰についてのディティールが見えないかというと、まったく逆で各教団の体制や住民の迷信まで細かく紹介されています。逆に神の主体的な紹介はせずに、人間がその神をどのように受け止めているかの様々な例をだしています。これにより、神の不可解さ(神秘性や怪しさと言ってもよいかもしれません)を損なわずに、神が存在する泥臭い世界観を実現しているのだと思います。『ウォーハンマーRPG』は、他の多神教を扱っている『D&D』などのシステムと一見同じように思えますが、信仰という行為のディティールの表現について一線を画していると思います。

 ただ、信仰という行為のディティールが詳細なほど、判らないことも多くなります。例えば、オールド・ワールドには神学校があります。ヴェレナの教団員が哲学的な論争を行なうのは理解できます。しかし、これが、ウルリックなどは自分はとたんに判りにくくなります。“惰弱なことはするな!”というのは行動指針であっても、理念じゃないですよね。何を論ずるのか? そもそも、ウルリックのように人に恩恵をあまりもたらさないような存在を何故少なくない人々が崇拝するのか?

 ここら辺は、イメージがぼんやりしていたのですが、『救済の書』の翻訳を通じてかなりはっきりしました。つまり、仏教やキリスト教などのある程度普遍性を持った神や、TRPGにおいて一般的な神の捉え方では、オールド・ワールドの神々は理解しにくい。この世界の神々は、人々を無条件で救済してくれるありがたい存在でもなく、信仰という貨幣で恩恵を与えてくれる便利な存在でもなく、崇拝しなくては祟られる荒神のような存在をデフォルトと考えた方がよいということです。『基本ルール』を読み返すと「ほとんどの神は畏敬と恐れが入り混じった目で見られている」と書いていますしね。

 神々の多くは、基本的に共存しなければいけないおっかない存在と考えればだいたいあっているかもしれません。例えば、海洋神マナンは不可解な存在ですが、恵みももたらすが難破や洪水も起こす海そのものと考えれば、理解しやすいかと。海と共存せざるを得ない人々は、マナンの怒りを買わぬよう、恵みを与えてもらえるよう崇めるという感じでしょうか。ウルリックも、寒冷地で生きる人々が冬の厳しさを崇めたものと考えれば、かなり腑に落ちます。

 そして、エンパイアの守護神シグマー。貧しいが敬虔なシグマー信徒にとって、この神は暮らし向きをよくしてくれと気楽にお祈りできるような存在ではないと思います。現在、曲がりなりにも家があり、妻と子がおり、仕事がある。そして、外国のような悪魔の地ではなくエンパイアに住んでいる。どうか、今後もこの暮らしを護ってくださいと懇願するような存在であると理解した方が近いかもしれません。そして、そのささやかな幸せが崩壊した時は、より祈りを深く捧げたりする。より過激な者なら、シグマーに許しを乞うために自分を鞭打ったり、都市の人間がシグマーの教えを軽んじて外国の悪習に染まるからこんなことになったと狂信に走るかも知れません。

 神学論争についてもイメージが少し固まりました。シグマーの戒律は、「組織のスジをきちんと通せ!」やら「海賊版撲滅!」とか体育会的営業方針だけ掲げている企業みたいなもので、経営理念は見えてこなかったです。ただ、理念ではなく、「××したら神に罰せられる」というものが主軸であればなるほど神学論争は尽きませんね。シグマーの御代から生活環境もかなり変化しています。新しい出来事について、これは許容でこれは駄目と言い争い、そこに政治的駆け引きも混じれば、ネタに困らないわけです。

 後、恐れ敬う神がデフォならば、なるほど混沌信仰にも走りやすいかなとも思います。黙っていても救済してくれるような神を捨てて、ナーグル信仰に走るのは不可解です。でも、祈りを捧げても人を難破させるようなマナンから、自分は病から救ってくれとナーグル信仰に走るのはそれほど理解できないことではないかと。


 『救済の書』には、信仰についての多量のフレイバーテキストがあります。これによって、オールド・ワールドへの理解が深まることと確信しています。



 ただ、『救済の書』も神自身の世界設定の立ち位置をはっきりさせていません。例えば、『ウォーハンマーRPG』では、『D&D』のように神は天界という異次元に存在するなどの公式設定の記述は一貫してありません。

 これはプレイヤーに世界の枠組みを考察する楽しみを与えているのだと思います。

 現在の自分の神の解釈は「混沌の神々が人類の無意識の総意が混沌の領域に反映したものに対して、神々は人類の意識化された総意が反映されたもの」です。何か、シグマー信徒に見つかり次第火あぶりにされそうな内容ですねw

 この解釈については、『救済の書』発売以降にブログにあげてみようかと思っています。